渋谷区公認の“デジタルツイン”として5月19日にオープンした「バーチャル渋谷」。図らずもコロナ禍でのオープンとなったこのヴァーチャル空間を手がけたのは、KDDI株式会社と一般社団法人渋谷未来デザイン、そして一般財団法人渋谷区観光協会を中心に組織された、リアルとヴァーチャルを横断する5G時代の新たなエンターテインメント体験の創出を目指す「渋谷5Gエンターテイメントプロジェクト」だ。
コロナ禍以前から同プロジェクトに携わり、「バーチャル渋谷」のオープニングイヴェントにもアヴァターとして登壇した現在芸術家の宇川直宏は、「バーチャル渋谷」での体験にパンデミック後の“リアリティ”を考える上でのヒントがあったと振り返る。
世界のカルチャーシーンに影響を与える日本初のライヴ・ストリーミングチャンネル「DOMMUNE」を10年にわたり育て続けてきた宇川がいま見据える、新次元のリアリティとエンターテインメントとはいかなるものなのか。コロナ禍で感じた「ミラーワールド」の可能性、自粛期間に見出したリアリティの真価、そしてこの苦境を乗り越えるべく始まったクラウドファウンディング「YOU MAKE SHIBUYA」について訊いた。
会うとはつまり、「空間を共有すること」
──宇川さんは「渋谷5Gエンターテイメントプロジェクト」のメンバーとして、「バーチャル渋谷」をVR(仮想現実)のギアを装着して真っ先に体験されていますよね。雑誌『WIRED』日本版では昨年ミラーワールド特集号を発売した背景もあり、「バーチャル渋谷」について「まさにミラーワールドだな」と思ったのですが、体験後に語っていた「大成功だった」というコメントの理由からお伺いできればと思います。
宇川 「バーチャル渋谷」自体が、コロナ禍における感染症拡大防止のために密集度を下げるべく、物理空間に集まれなくなった人々が仮想空間にその幻影を求め集うコンセプトですし、スクランブル交差点をデジタルプラットフォームに見立てたソリューションなので、発想が完全にデジタルツインで、VR空間にスキャンされた渋谷駅前はまさにミラーワールドですよね。
「cluster」(VR機器などさまざまな環境から参加可能なヴァーチャルイヴェントプラットフォーム)をベースにつくられていたので、VRデヴァイスを装着しての参加は少しハードルが高かったかもしれませんが、一般参加者たちは自身のデヴァイスから「バーチャル渋谷」に接続したり、YouTubeのライヴストリーミングでリアルタイムに参加したりしていました。そして、SNSで大きなバズが起きて終了後に参加者が増え、リピーターも激増したんですよね。
──「デジタルツイン」としてかなり完成度の高いものだったと思いますが、コロナ禍で人が集まれない状況でオープンしたことでさらに意味のある空間になったのではないでしょうか?
宇川 デジタルツインとは、そもそもIoT以降の製造現場のリアルタイムなシミュレーションを実現させる技術でしたよね。物理空間に存在しているプロダクトをモニタリングしてサイバー空間に再構築し、仮想モデル上で管理したり、フィジカル空間のエラーやトラブルを修復したりできる。ヴァーチャルとフィジカルの往来を「一卵性双生児を後天的に生み出す」ことで可能にするものです。
今回の「バーチャル渋谷」では、スクランブル交差点の中心半径約500mをデジタルツイン化していました。実世界のスクランブル交差点は、昭和の時代からワイドショーでも夕方のニュースでも日常的にお茶の間で共有され続けてきた、東京だけではなく日本のにぎわいの象徴だったわけですよね。でも、その日本の都市風景を代表する生命力に溢れたポップアイコンが、いまコロナ禍においてソーシャル・ディスタンシングのシンボルになっている。
つまりこれが何を意味するかというと、現在、フィジカル空間にエラーが出てしまって、都市が機能障害に陥っているということです。なので今回、渋谷5Gエンターテイメントプロジェクトは都市空間のデジタルツインをVRとして制作し、故障した実世界が復旧するまで、もしくは新たなリアリティが概念化できるまで、デジタルツインのなかで物理空間でのにぎわいをリアルタイムでシミュレートし、維持し続けようとしているわけです。そういった意味においても、「バーチャル渋谷」はコロナ禍における都市再生の物語の第1章を描けたのではないかと考えられます。
──確かに、緊急事態宣言の真っただなかでのオープンであったからこそ「現実の故障」が顕著だったと思います。
宇川 その通りです。あの列島全域から脚光を浴びていたスクランブル交差点が、コロナ禍においては最も距離を保つべき交差点とされ、ワイドショーにおいてネガティヴなイメージを拡散されました。だからこそ、なおさらアヴァターとして闊歩した「バーチャル渋谷」での体感も変わったのだと断言できます。言葉を変えれば、実空間と身体の関係性の変化が、仮想空間での体感を変えてしまったといえるのです。
しかし5月のローンチ当初は、現在のようにウィズ/アフターコロナや、ポストコロナ、ポストパンデミックなどとは語られていませんでした。当時は緊急事態宣言を乗り越えて自粛期間が終わったら、かつてあった現実がまた戻ってくるかもしれないというギリギリの希望をもっていたと思うんですよ。でも、いまや当たり前に存在していた日常はもはや戻ってこないという認識をそれぞれがぼんやりともってしまっていますよね。
──このたった数カ月でエンターテインメントにおける表現方法も大きく変化しましたよね。
宇川 コロナ禍で、人々はZoomを中心としたヴィデオ・コミュニケーション・プラットフォームに慣れ親しみ、何もかもがZoomライクなスプリットスクリーンのレイアウトに押し込められました。例えば『カメラを止めるな! リモート大作戦!』のようにZoomで映画が撮られたり、劇団ノーミーツがZoomで演劇をおこなったり、写真家・映画監督の蜷川実花さんはZoomでリモート撮影をしたりしています。地上波のワイドショー、ヴァラエティ、そしてニュースというフォーマットまでも、ソーシャル・ディスタンシングを意識して出演はリモート化し、Zoomを模したレイアウトで番組はオンエアされ続けました。
つまり、コロナ禍においては紀元前5世紀頃に生まれた演劇も、16世紀に発明されたカメラ・オブスクラに端を発する写真も、120年以上の歴史がある映画も、日本では1953年に放送が開始されたテレビも、会議も飲み会もデートも……何もかもがクラウドミーティングのステージに上げられたのです。
しかし、われわれはこのようなコロナ禍に産み落とされた新たな視覚表現の定型を体感すればするほど、コミュニケーションの本質を考えることになったのだと思います。つまり、ミーティングプラットフォームであるZoomは、「ミート=会う」という言葉を内包しているけれど、果たして本当に会っているのか?、と。
──非常に思います。
宇川 ですよね。やはりZoomを使いこなしてみて感じたことは、やはりこのコミュニケーションでは「会っていると感じない」=「会っていない」ということなんですよ。会話は成立しているが「会合」には至っていない。
禁じられていなかったので人々は「会う」ということの本質についてあまり考えてこなかったと思います。でも、この機会に会うことが本来どのような体験だったのかを考えてみると、それはつまり「対面すること」以上に「空間を共有すること」だったことに気づくのです。対面しなくてもいいから同じ空間の中に集まること。それが「会う」ことの本質で「会」の意味ですよね。コロナ禍以前は意識すらしていませんでしたが、そこで得られた人と人、人とものの相対的関係が、空間認知として作用して「会う」ことは成立していることに改めて気がついたのです。
ノイズアヴァンギャルドやフィールドレコーディング好きのぼくにはたまらないのですが(笑)、いまこのスタジオの空間に潜んでいる空調の音や、ぼくらを撮影しているフォトグラファーの呼吸や館内の物音のようなものも含め、さまざまな気配や臨場感のある空間に溢れる聴覚情報も、人々のコミュニケーションを豊かにしているわけです。
これはレコーディングエンジニアが「アンビエンス」と呼ぶあの情報のことですが、Zoomではそれらをノイズとして排除していますよね。だからこそ複数人の“会話”が円滑に進むのですが、反作用として“会合”を成立させる条件がどんどん削ぎ落とされていく。また匂いや触覚も「会う」ことの一部であり、そこにまつわる記憶も付随していますよね。
それらを踏まえたうえで、「バーチャル渋谷」はさまざまな記憶を引き出してくれましたし、いまもかけがえのない身体的な体験として自分のなかに残っているんです。場を形成するいわゆる座標空間の情報だけではなく、リアルタイムで「渋谷を共有した」という想い出がアヴァター同士で作用しているんですよ。
当時、物理世界のスクランブル交差点はできるだけ近づくなと言われていた場所ですよね?
──はい。まさに、集まるなと言われる場所でした。
宇川 そう。そんな交差点にデジタルツインとしての「バーチャル渋谷」はステージをつくったんですよ。仮想空間なのをいいことに(笑)。ぼくらはそのステージ上で緊急事態宣言発令中にトークショーをやったのです。
ぼくは「cluster」のオフィスでVRギアを着けて操作していたので、ステージ上でのアヴァターの動きは完全にぼく自身のモーションだし、一緒に出演していた若槻千夏ちゃんは別の部屋でガチ・ソーシャルディスタンシングを保ちながら実際にギアを着けてアヴァターを操縦していた。「SEKAI NO OWARI」のLOVEくんと、ヴァーチャルライヴァーのアンジュ・カトリーナさんは自宅から参加していましたが、同じく「バーチャル渋谷」という仮想空間を共有していました。
で、この「空間に集まっている実感」を何が支えているかというと、それがまさにデジタルツインの世界で作用した「空間記憶」と「認知地図」だということです。
──なるほど。わたしもあとから「バーチャル渋谷」に入りましたが、「109」近くの吉野家の位置なども実際とほぼ同じで、空間としての完成度の高さに驚きました。
宇川 ほぼ同じというかマッピングされた都市情報がまんま生かされているので、完全に同じ(笑)。「完全に同じ=後天的に産み出された一卵性双生児」、つまりデジタルツインなので、「バーチャル渋谷」に入った瞬間に空間記憶が引き出され、かつて闊歩した渋谷というストリートを“歩いている”という実感に浸れるんですよ。109も存在しているし、斜め前の吉野家だってある。店の名前はすべて捩(もじ)られているので吉野家はよくみると告野家と表記されていましたが(笑)、兄と弟の違いはディティールで把握できる。
ぼくがあの空間をアヴァターとして歩いて、空間的な定位を獲得してから無意識に向かおうとした方向は、宇田川町にあったCISCOハウス店とCISCOテクノ店でした。サンフランシスコから戻ってきて、90年代末から2000年代初頭にかけて毎週通っていた時期があるんですが、「バーチャル渋谷」内の「109」に差し掛かった瞬間にしっかりと身体が覚えていて、VR空間なのに宇田川町の方向に曲がろうとしたんです。
アヴァターであっても、認知地図が脳内でカーナビのように発動してしっかりと渋谷を歩いている体感があったし、歩いたらなおさら海馬にこびりついている当時の感覚やエピソード記憶を検索しようとするんですよ。
──あくまでヴァーチャル空間なのに。
宇川 そうです。環境に対する主観的なイメージのアーカイヴが空間記憶だとすると、その扉は普段は実際の渋谷の街を歩かないと脳の中で開かないんです。しかしアクセスしてすぐに「リアルな感覚が得られた」のは、都市のもつ「アーカイヴ」に、自己が抱えていた「ノスタルジア」が自動的にチューンインしたのだと実感しました。感情が瞬時に外在化されて、共有された。これは大きな発見でした。
「バーチャル渋谷」上のイヴェントとして若槻さんが水先案内人となり、ヴューワーの全員で一緒に街ブラしたなかで、さまざまな想い出がVR空間内で脳内に押し寄せてきました。ぼくがいちばん感動したのは、若槻さんがスカウトされた場所をみんなで追体験できたこと(笑)。
あと「バーチャル渋谷」にはここちよいノイズがあった。
──「ザー」という環境音だけの不思議なノイズでしたよね。
宇川 あれは実際の渋谷の街の音なのですが、クルマは通ってないし、巨大なサイネージに映像は写っていませんでした。でも排気音や、映し出されたCMの残響や、若人の熱狂も雑踏のフィールドレコーディングのなかに周波数成分として宿っているんですよ。そのノイズをアンビエンスとして生かしているからこそ、それが聴覚刺激として相乗効果を生み出し「郷愁の扉」を開いたのです。あの日あの場所でノスタルジアをまとって、エピソード記憶のアーカイヴが大脳皮質からにじみ出した。確かにそう感じました。
実際に一緒に体験した人たちも、当時のTwitterのタイムラインを振り返って見ても、みながそれぞれの渋谷を語りたがっていました。参加した人の多くは、原体験だったり、去年のハロウィン体験だったり、レコードを掘った感覚だったり、「WOMB」で踊った体験だったり、ワイドショーで見たあの風景だったり、憧れだったり……それぞれが渋谷と向き合ったノスタルジックな物語を心に刻んでいます。
そのように個々の記憶が気配として渦巻き宿っている渋谷のデジタルツインを今回体験することで、新たな社会的つながりを再発見できたのです。その条件として、まず公共空間であったということがすごく重要だという気がしたんです。
「幻想で無限」の行方と「公共で有限」というヒント
──スクランブル交差点という“みんなが知っている場所”がミラーワールド化していたことが、仮想空間上で「会った実感」を抱かせるための重要な要素だったということですね。
宇川 その通りです。先述の通り渋谷にはそれぞれの思い入れがあるし、物心ついた日本人で渋谷を知らない人はなかなかいないと思います。そう考えたら渋谷のスクランブル交差点って、究極のポップアイコンなんですよね。「世界で最も有名な交差点」との異名をとるぐらいなので、大衆文化と異文化交流の象徴なのは間違いない。
話は変わりますが、モノマネでドラえもんやドラゴンボールの孫悟空、もしくはクレヨンしんちゃんの野原しんのすけなどが広く模写されやすい理由も、国民的なポップアイコンとしてオリジナルをみんなで共有できているからですよね。
受け手のほとんどが、かつてそのキャラクターに接したノスタルジアを幻想として抱えていて、モノマネを鑑賞するという行為は「幻想交流の場」になっている。不特定多数の人が認知しているからこそ、ある種の共同幻想が成立するわけで。わかりやすく言えば、渋谷のスクランブル交差点もそのような存在だったというわけです。ただ、キャラクターではないので「声マネ」や「顔マネ」でスクランブル交差点が表現できるわけはなく(笑)、このたびやっとデジタルツインという手法で、国民的ポップアイコンの模写が成立した。
──確かにそうですね。
宇川 渡ったことがない人ですら、何かしらスクランブル交差点に想いを抱えていますよね。ハチ公がいるあの交差点、ファッションスナップで見たあの通り、あるいは修学旅行で来たときに休憩時間に人間観察するだけでも楽しかったなとか。
おそらくデジタルツインを構築したとしても、渋谷のように「ポップな空間記憶」にアクセスできるアイコンというのは日本でほかにないだろうと思います。世界文化遺産に登録された富士山も日本を象徴する存在なのは間違いないですが、富士山のデジタルツインだとあまりにも広大無辺すぎて、ディテールが掴めない。
──登山するしかないですよね(笑)。
宇川 ハハハ。ミラーワールド内の富士山も、まずは登山してみる以外ないですよね。体感も、いま何合目かくらいしか言えないっていうね(笑)。ただし、全裸で寝てみたり、100人で転がり落ちてみたりすることはできますよね。
しかし、わかりやすいディティールが共有できない。やはり神は細部に宿るわけで、デジタルツイン/ミラーワールドの醍醐味としては細部まで丹念に模写されたクオリティとその情報量がまず重要。そうすることによって仮想のなかに現実が宿るのです。
そんな神空間に接することによってノスタルジアが刺激されて、それぞれが思い入れのある渋谷像、渋谷民話を語りたがるわけで…。例えば、道玄坂には山賊がたむろってたとか、与謝野晶子がマークシティのすぐそばに住んでいたとか。いきなり90年代にワープすると、「渋谷系」の発祥由来や「ヤマンバ」の突然変異、チーマー全盛期に並んで買ったその足で「エアマックス狩り」にあった実話など(笑)。渋谷には口伝され受け継がれるべき、さまざまな歴史と民話がありますよね。
このように各自が抱えるエモーショナルな渋谷への思い出や記憶、うんちくがあるわけで、外出自粛中の50,000人がアヴァターと化して街ブラして、それが共同幻想として発動したからこそリアリティが立ち現れた。その上、アヴァター操作という身体性も伴いながら空間記憶と接続されたから、「バーチャル渋谷」を「実際に歩いた」という実感をいまももっているわけです。
このようなミラーワールド体験をメタヴァースと比較するとしたら、あの空間は100%フリーな幻想世界ですよね。サイケデリアの果てなき探求。本来なら物理世界に存在しない空間なので、どう描こうが無制約で自由。つまり「幻想で無限」。想像力でどうにでも描ける世界だからこそ、非常にパーソナルな自己幻想的領域だとも言えます。
でも、渋谷はその逆で物理空間に存在する都市である。つまり「公共で有限」ですよね。ゆえにデジタルツインを構築できる。そのミラーワールドである「バーチャル渋谷」も一卵性双生児なので、同じく「公共で有限」なのです。だからこそ、リアリティを他者と共有できる。つまり、個と他者の公的な関係性すらも模倣できるので、共同幻想を成立させやすい。
──渋谷のもつ「ポップアイコンとしての公共性」と「物理空間としての有限性」が、デジタルツインで「リアリティ」を共有するためには必要だと。
宇川 そうですね。まとめますと、「VR=ヴァーチャルリアリティ」と言いながらもメタヴァースのような「幻想で無限」な「サイケデリアの果て」を描くなら“リアリティ”は関係なくて、それはもう“ヴァーチャル”でいいのではないかと。つまり「リアリティ=共有」だと思ったわけです。
そしてヒントは、リアリティとは公共という概念に保証されているのだということ。最終的には、リアリティは自己が抱えている感覚との照合のことではありますが、「公共で有限」であることがそれを支えていたことに気づいたのです。そう、失ったことで初めてその価値を再認識したのです。
──なるほど。
コロナ禍においては、物理空間でのコミュニケーション自体が自粛させられているので、なおさら強烈に公共で濃厚接触することの豊かさにぼくらはいま、目覚め始めているわけです。濃厚接触といっても路上でディープキスしたいわけではなくて(笑)、ただ普通に今年の2月初旬までしていたように、マスクを外して語らったり、握手したり、ボディタッチしたり、ハグし合ったり……いやいや、それ以前に同じ空間を共有すること自体にリスクのあるいま、コロナ以前の身体性を伴ったリアリティに郷愁を感じているのです。
コロナ禍が生み出した「究極のVR」とゼロ次元
──これから大きくなる子どもたちは、「バーチャル渋谷」の中にある“リアリティ”を先に体験してから物理的な渋谷の街を訪れるという転換が起こると思うのですが、そうなると物理的な渋谷の街での体験にはどのような変化が起こりうると思いますか?
宇川 都市体験の反転ね……。ミラーワールドだけに、鏡写しですね。しかし、ヴァーチャルのなかに潜むリアリティに先に触れて、そのイメージをまとったまま実世界を体験するという反転は昔からずっとありました。
例えば、1964年の海外渡航自由化以前は、「Google Earth」もないので、地図や旅行雑誌を眺めたり、あるいはマーティン・デニーやアーサー・ライマンのエキゾティック・ミュージックを聞きながら楽園であるハワイを夢想したり、脳内だけバリやニューギニアにヴァーチャルトリップしたりしていたわけです。そしてシンセサイザーが発明されて、いきなり人類未踏の惑星にも宇宙にも脳内だけは行ってしまえるようになったと。つまり高度経済成長期に、すでに現行VRの「公共で有限」と「幻想で無限」のサーガは始まっていたということですね。
要するに、エキゾチカに対する欲求を満たすための情報を手探りで集めて「行ったつもり」になるための空想をしていた歴史は長いのです。さまざまな情報をつなぎ合わせて脳内で理想郷を描き出し堪能するという「セルフ・ヴァーチャル・リアリティ」の試みは親の世代からあって、その後に海外渡航が自由化されて、やっと気軽に実世界でのハワイに行けることになったわけです。ステイホームの“ホーム”を“自国”と捉えると、巣ごもりやおうち時間を堪能しながら脳内でリアリティを手繰り寄せようとしていた歴史は想像以上に長いということです。
──なるほど。
宇川 いまはそこにIoTやXRが参入し、身体感覚にも揺さぶりをかけるようなテクノロジーが絡んできているだけで……。当時は確かに情報の解像度は低かったけど、人間の想像力には果てがないわけです。なので、ヴァーチャルから異国情緒を体験すること自体は前世紀から繰り返されてきていることなんです。それよりも、それぞれの思いの強さや深さのほうが大事だと思いますよ。
──確かに、いくら脳内で情報を埋めても、実際その場所に行ったときにある雑音や空気感は、当然独特のものとしてあり続けますよね。
宇川 そうです。そしてむしろノイズのほうに真理を見出したりするわけですよね。そのように空間形成の中心に位置するランドマークだけではなく、周縁のさまざまな情報に触れて初めて立体的な価値が生まれているので、「実空間のリアル」はどんなにテクノロジーを駆使しても最終的にはミラーワールドではかなえづらいことだと思います。
そこでまたメタヴァースのことを考えたいのですが、先ほど「幻想で無限」の世界は「サイケデリアの果て」ゆえに “リアリティ”に縛られる必要はまったくなくて、無制約に“ヴァーチャル”でよいと語りました。その“ヴァーチャル”内での秩序が世界の不特定多数の人々と共有され、共同幻想と化すと、それ自体が“リアリティ”を超え、いきなり“リアル=現実”になるという考え方もできます。
つまり、メタヴァースは仮想現実シミュレーションではなくなり、ユニヴァースと同じく、マルチヴァースとして、これもひとつの現実になるという。それら多元的宇宙を纏めて、オムニヴァースであると概念化されることは、フリージャズの巨匠であるサン・ラ崇拝者なら、みな理解してることだと思います(笑)。
あと、体験の反転という意味で語るなら、インターネット以降の最大のメタ問題は、未成年がたやすくポルノグラフィにアクセスできてしまうことだと思います。以前はさまざまなレイティングシステムを通過しないと観られなかったAVが簡単に観られてしまう。オックスフォード大学インターネット研究所が、18年にフィルタリングの無効性を実証してしまいましたが、問題なのは子どもたちが見てしまうこと以上に、いきなりプロフェッショナルでフェティッシュなセックスを見てしまったことで、そのフィジカルな奥義に圧倒され、ハードルが上がりすぎて自信喪失し、現実世界で性交渉をするエネルギーが減退することです。
つまり、昔は秘め事だったので、男女仲良く手探りで性感帯をさぐりあったり、お互い教え合ったりしながら快楽を分かち合ったり、オーガズムに達したり、そうして子孫を残してきたわけじゃないですか。だけど、いまはアクロバティックな技巧をもったスペシャリスト同士が繰り広げるパフォーマンスを先に見させられるんですよ。選手になるか、諦めるかの世界(笑)。
──確かに、いきなりすごい模範演技を(笑)。
宇川 そう。だからそれで二次元との疑似恋愛に逃げ込んでしまったりしてしまう。さらにいまは三次元の世界も進化していて、「アダルトVRフェスタ」とかではVRのアダルト映像と連動する大リーグボール養成ギプス的な発射補助マシンも続々とリリースさてれていて(笑)。
これも先ほどのエキゾティシズムや理想郷とVRの相互関係、もしくは「幻想で無限」と「公共で有限」の問題と同時空で考えるべきかなと。情報が少ないからこそ想像力で補っていたのに、先に秘境の深奥や、部族間儀式を映像で見せられてしまうと、秘境を探索する好奇心が薄れてしまう。
つまり、欲求や欲望に裏打ちされて生まれていた衝動を簡単に解消してしまう記号を先に与えられると、現実に存在している大きな山を誰も乗り越えようとしないということです。濃厚接触しないでいかに欲求を満たすかっていうことを、先回りして脳が考えてしまうことのほうが問題だと思いますね。
コロナ禍で見つけた「究極のVR」
──「バーチャル渋谷」も含めて「渋谷5Gエンターテイメントプロジェクト」では、パンデミック以前から「au 5G×エンターテインメント」のさまざまな仕掛けを準備されていましたよね。現在、準備段階に想定していた状況とガラッと変わってしまいましたが、この変化によってむしろ見えてきた新たな可能性があればお聞かせください。
宇川 とんでもない時代に突入しましたね。いまだ感染率が下がることもなく、ウィズ/アフターコロナの時代と語られ、かつて当たり前に存在していた日常はもはや戻ってこないという認識の上で、それぞれがニューノーマルを考えようとしている。つまり物理空間でのコミュニケーションを前提としたエンターテインメントは、ソーシャル・ディスタンシングを保つことを義務づけられているので、復活させるのはなかなか難しいわけです。
その状況下で、渋谷区の商店会連合会や観光協会、そして渋谷未来デザインは「YOU MAKE SHIBUYA」というクラウドファンディングを始めることになりました。このクラウドファウンディングの実行委員会に入っている「渋谷未来デザイン」とDOMMUNEが同じPARCOの9階にあって、濃厚なご近所付き合いとして、ぼくらもかかわらせてもらっていますが、そこで一緒に取り組んでいるのは、渋谷が渋谷のエンターテインメントをサポートする下地をつくり、それを全国にいかに拡張させていけるのか、というお題です。そこで、まずはクラウドファンディングのリターンとして4つの番組をDOMMUNEから配信することになりました。
いま、誰もがいかにしてXR的表現をライヴパフォーマンスに取り入れるのかを模索中だと思います。このコロナ禍で大きなバズを生んだ「フォートナイト」でのトラヴィス・スコットのライヴは「歴史的転換点」と語られ、喝采を浴びていますよね。
メタヴァース的なオンラインゲームのなかにいきなり巨大化したトラヴィス・スコットが降臨して、実際はライヴではなくVR空間内でデータファイルが再生されている構造なのに、決定的なライヴ体験を果たしている。あのユーザーの没入感は確かに「かつてなかった何か」で、エンターテインメントの歴史が転換したと言っても過言ではないわけですよ。演目は毎回変わらないのにユーザーが接する空間認知が毎回アップデートされるわけですよね。何度観ても同じライヴ体験にはならない。
──普通は、そう簡単にトラヴィス・スコットを足元から見上げることはできませんよね。
宇川 そうそう。海底で足元からトラヴィスを見上げて始めて、ジョーダン履いてたんだって気付くわけでしょ?(笑)。あの体験で気づいたのは、リアリティの意味と同じく、ライヴの意味をどう更新するかということです。そこでVRの極地の話をしていいですか?
──ぜひお願いします(笑)!
宇川 何かというと、山本精一さんの「無観客無配信ライヴ」です。ぼくは90年代初頭から2000年代にかけてボアダムスのVJをやっていたので、山本さんとはもう30年お付き合いさせていただいておりますが、山本さんがオーナーの大阪のライヴハウス「難波ベアーズ」は、日本のオルタナティヴ、ノイズ、アヴァントの聖地として、1986年より独自の音楽磁場を形成してきたわけです。そのTwitterアウントから3月5日「本日!急遽!ベアーズにて コロナ調伏撲滅祈念、山本精一絶叫無観客ライブ開催決定!」というつぶやきが世界の側に発信されたのです。
そして、そこには「17時開演 配信はありません! なお、ベアーズのドアは閉まっていますので、入場はできません。」と目を疑うような注釈が付けられていた。つまり、誰も観ることができないので、誰のために演奏するのかすらわからない。すごくないですか? どこかに必ず他者に届ける回路を開いていることが表現の根本だと信じていたので、目からウロコ7億枚の大きなショックを得ました(笑)。
──(笑)。
宇川 「無観客配信ライヴ」であれば、アクセスできるし、終了後に追体験しようと思えばどこかにアーカイヴがあるだろうし、タイムラインを掘り下げれば配信画面のスクショからパフォーマンスを妄想することもできる。もし、すべてが閉ざされても観た人から口伝でライヴの様子を伝え聞くことだってできる。でもそれすらできない。なぜなら誰も観てないから(笑)。
──やったかどうかすらわからないですよね(笑)。
宇川 そう、本当にやったかどうかさえわからない。なのに、このパフォーマンスに感動した人々が、チケットを買いたいって言い始め、なんと前代未聞の「後売りチケット」が販売されることになった。ライヴハウスへのサポートの意図もあって、それがめちゃくちゃ売れたらしいのです。何度も言いますが「無観客無配信ライヴ」の「後売りチケット」が。ぼくはこれこそが、究極のVRだと思ってるんですよ(笑)。
ヴァーチャルの本来の意味は、「実体・事実ではないが『本質』を示すもの」なわけです。ここでは「とあるアンダーグラウンドのライヴハウスで行われた」という事実すら、もはやどうでもよくなっている。かといって無限のサイケデリアでもないし、有限の公共として片づけられるものでもない。なぜならやってない可能性もあるから。にもかかわらず、エクストリームなライヴが行われたという“確信”だけがある。
──確かに“ヴァーチャル”リアリティですね。
宇川 でしょう? ライヴがおこなわれたという確信のもとに、購入した後売りチケットを眺めながら、皆がそれぞれの脳内でいつでも何度でも開演できるんです。そして「3月5日のあの日あの場所」に想いを馳せて、そこに確かに存在したであろう山本精一さんの幻影を脳内に映し出す。このように一人ひとりがまったく別のライヴ体験を繰り返すことが出来るわけです。眼球を通してその演奏を観た者は誰もいないのに、ですよ(笑)。おれは山本精一さんのこのライヴこそが究極のVRだと考え、トラヴィス・スコット以上の「歴史的転換点」だと思っていて、このことからイメージしていくとライヴの本質が見えてくるわけです。
先述のとおり、いまさまざまなアーティストがXR(クロスリアリティ)をエンターテインメントに接続して、実空間でのライヴを超えた体験を導くことを模索しているなかで、いきなり「無観客無配信ライヴ」の「後売りチケット」ですべてをゼロ次元に戻したわけです(笑)。そしてこのことが表すように本当に重要なのはテクノロジーじゃなくて、人間の妄想力なんです。そしてその妄想力こそがテクノロジーを導いているのですよ。
渋谷で構想する新次元のエンターテインメント空間
──いま苦境にある渋谷のライヴハウスなどのエンターテインメントの現場は、「渋谷5Gエンターテイメントプロジェクト」や「YOU MAKE SHIBUYA」によって、具体的に今後どのように変化する可能性があるのでしょうか。
宇川 やはり考えているのは、ミラーワールド化ですね。デジタルツインの領域をどんどん広げていくべきだと思っています。例えば、実際の地図とは違って、ミラーワールド上では109の隣のビルのエントランスが宮古島とつながってもいいし、TSUTAYAの屋上から佐渡島が眺められてもいい。どこでもドア的に。リアリティとノスタルジアとエキゾチカに溢れている実世界の双生児空間であるならば、それぞれがどう接続し合っていても別にいいんですよ。
なので、動画プラットフォームを中心に置いて、そのプラットフォーム自体をミラーワールドとつなげていくことができたら面白いなと思いますね。フィジカルをスキャンしつつ、ヴァーチャルとの往来もできるプラットフォーム。コロナ禍で感染者数が伸びて、物理空間の動員数を制限する必要が生じたら、ヴァーチャル側の動員数を増やすみたいな。
──ヴァーチャルとフィジカルの動員をシームレスに制御できたらかなり新しいですね。
宇川 はい。これこそが自粛を要請された街・渋谷が打ち出すべきプラットフォームであると思うし、それが渋谷区だけではなくて日本全国、もしくは世界とリンクできるような現場になればいいと思っています。そうなると、どちらがリアルであるかヴァーチャルであるかの議論すら超越できるかと。
──世界中のエリアやそこにあるライヴハウスなどの現場同士が、「バーチャル渋谷」を介して接続していく可能性もあるということですね。
宇川 そうですね。最終的にはテレイグジスタンスも実装できれば素晴らしいですね。例えば、ロボットアームカメラやリモートコントロールが可能なPTZカメラを各ライヴハウスに複数設置して、DOMMUNEでそのカメラのすべてを管理する。au 5G経由で遠隔操作して、DOMMUNEでリアルタイムエディットした映像をヴァーチャルプラットフォームに戻すというように。
──じゃあ、もう家からでもいろいろなハコを行き来して、ライヴを楽しめるようになると。
宇川 そう、これで“無観客有配信”ライヴも世界に映し出すことができるし、ステイホームしつつ“渋谷の街”も歩ける。何でこんなこと真顔で言っているかというと、本当にアヴァターとして“歩いた”実感があるからなんですよ(笑)。
といいつつ、最後にひとつ強調しておきたいことがあります。最近ぼくとネットワーカーのばるぼらくんとW・デーヴィッド・マークスくんとで雑誌『POPEYE』掲載の「インターネット25年史」の年表制作に携わったのですが、その際にデーヴィッドから「昔、インターネットは現実からエスケープする場所だったんだけど、いまは現実がインターネットからエスケープする場所になった」という発言がありました。
この言葉は現行のリアリティを考える上で、かなり示唆に富んでいます。今日はさまざまな角度からフォーカスを合わせてリアリティについて話をしましたが、もうすでにインターネットこそが「リアル」なのです。だからこそフィジカルな体験や物質的な価値がより一層高まってきている。そんななか、誰も想像できなかった感染症の世界的流行で、エスケープする場所=現実自体がいまウイルスに脅かされています。そしてすべてのエンターテインメントはオンラインに活路を求め、インターネットは完全にマスになってしまいました。
けれども、やはり大切なのは、オルタナティヴな実験の現場をリアルとヴァーチャルの双方でいかに維持し続けられるかということ。たとえリアルとヴァーチャルが反転しようが、重要なのはこのことだと思うのです。
"エンターテインメント" - Google ニュース
September 01, 2020 at 06:00PM
https://ift.tt/3biqruW
宇川直宏が解く、“故障した都市空間”とライヴエンターテインメントを救う〈ミラーワールド〉の可能性 - WIRED.jp
"エンターテインメント" - Google ニュース
https://ift.tt/2W81riD
Shoes Man Tutorial
Pos News Update
Meme Update
Korean Entertainment News
Japan News Update
Bagikan Berita Ini
0 Response to "宇川直宏が解く、“故障した都市空間”とライヴエンターテインメントを救う〈ミラーワールド〉の可能性 - WIRED.jp"
Post a Comment