大河ドラマ「光る君へ」。満月に見守られた廃邸で繰り広げられたどこまでも美しいラブシーン。弦楽合奏を中心に奏でられる2人の愛のテーマも、もうおなじみでしょう。思わず涙した方も多いかと。とはいえ、まひろの涙が象徴するように「恋の成就」の喜びとは言えない、複雑な余韻を残す場面でもありました。互いに激しく求めつつ、すれ違ってもいくまひろと道長。切ない情景でした。(写真は注記のあるもの以外NHK提供)
歌に込めるものは「心」なのか「志」なのか
2人の思いの微妙な違いが和歌と漢詩のやり取りに象徴されていました。道長が送ったものは3つ。いずれも最古の勅撰和歌集である「古今和歌集」からの引用です。最初の歌は「巻第十一 恋歌一」から。次の2つは「巻第十二 恋歌二」から。五つの巻からなる恋歌のパートの最初のシリーズで、いずれも恋の始まりを現す歌を集めています。
思ふには 忍ぶることぞ 負けにける 色には出でじと 思ひしものを
あの人を思う心の強さには、堪え忍ぼうとする心のほうが負けてしまった。けっして素振りに出すまいと思っていたのに。(503番、よみ人しらず 新潮日本古典集成より)
死ぬる命 生きもやすると こころみに 玉の緒ばかり 逢はむと言はなむ
あなたを恋して今にも死に絶えようとする私の命が、生き延びることもあるかどうか、ためしにでもいいから、玉の緒ほどのちょっとの間、逢おうと言ってもらいたい。(568番、藤原興風 新潮日本古典集成より)
命やは なにぞは露の あだものを 逢ふにしかへば 惜しからなくに
命なんか、何ということもあるものか。こんなものは、露のようにはかなくたよりないものだ。恋しい人とお逢瀬に取り換えられるものならば、なんで命が惜しかろう。(615番、紀友則 新潮日本古典集成より)
逢えなければ死んでしまう、といわんばかりの狂おしい思いがほとばしります。ここに表現されているのは人の心情そのものでしょう。
一方、まひろが返したのは陶淵明の「帰去来辞」です。「帰りなんいざ」で始まる冒頭はあまりに有名です。
さあ、帰ろう。故郷の田園がいまにも荒廃しそうなのに、どうして帰らずにはいられようか。みずから求めて精神を肉体の奴隷と化してしまっているのに、ひとりくよくよと嘆き悲しんだところで、どうなるものでもない。過ぎ去ったことは、今さら悔んでもしかたない。これからのことは心掛けひとつでどうにでもなる。人生の進路をたしかに踏み間違えたが、まだそれほど遠くへは来ていない。(岩波文庫「陶淵明全集(下)より」)
陶淵明(365‐427)は東晋の詩人。偉大な詩人として日本でも尊敬されました。没落士族階級の出身で、若いころは官職をめざしましたが、徐々に現実世界に失望し、田園の中に帰隠して自然のままに生きる道を選びます。「帰去来辞」はそうした決意を歌ったものです。この場面で使われると、直秀の死のショックから抜け出しきれない道長に対して、まひろは「過去は過去。自分の進むべき道を歩め」と叱咤激励しているように読めます。
さすが行成、「和漢」の違いをずばり
陶淵明の有名な歌ですから、字面の意味するところは道長もすぐに分かりました。しかしまひろの真意は図りかねました。そこで文才のある藤原行成にアドバイスを求めました。即座に回答が戻ってきました。
「そもそも和歌は人の心を見るもの、聞くものに託して言葉に表しているもの。ひるがえって漢詩は志を言葉に表すもの。漢詩を送るということは、何らかの志を詩に託しているでは?」。書道における最高峰の「三蹟」のひとりで、さすが高い識見で知られることになる行成です。
紀貫之「仮名序」、日本文化の潮流に圧倒的影響力
行成が和歌の本質として言い表した「人の心を見るもの、聞くものに託して言葉に表す」は紀貫之(※1)からの引用でしょう。「古今和歌集」の名高い「仮名序」です。

やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれにける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。
和歌は、人の心を種子として、あらゆるものが言葉になったものである。世の中に生きているひとはたえずさまざまな行為をしているので、心に思うことを、見るもの、聞くものに託して言葉に言い表わすのである。(岩波現代文庫 大岡信「日本の詩歌 その骨組みと素肌」より現代語訳)

出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
「光る君へ」でもとりわけ公的な場面では盛んに漢詩が登場するように、当時の日本は中国文化の強い影響下にありました。そうした状況の中、天皇の命によって編まれた「勅撰和歌集」という錦の御旗のもと、和歌の価値を高らかに宣言した「仮名序」と古今和歌集はその後の日本文化の展開に決定的な影響を与えていくことになります。道長が寄って立ったのは、この貫之の世界観でしょう。
「言志」を主張、論理を重視するまひろ

出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
一方、「詩は志を言う(言志)」も名高いものです。『書経』(※2)に「詩は志を言う,歌は言を永する」とあるなど、中国における詩の在り方を象徴した表現です。社会に対して自己主張することが詩の本旨である、とも言えるでしょう。作者の情感や感動をわずか三十一文字の世界に定着させる和歌の在り方とは相当に距離があります。「一緒に都を出よう。海の見える遠くの国へ行こう」と心情を訴える道長に対して、まひろは「あなたにはよりよき政(まつりごと)をする使命がある」「私は、道長さまがこの国を変える様を見届ける」ときっぱり拒絶。まさに「志」の表明でした。まひろの人生観やキャラクターがはっきり表現された場面とも言えそうです。

今回のまひろと道長のやり取りは、漢詩=男性のもの、和歌=女性のもの、という一般的なイメージと逆で、ジェンダーも含めたドラマの作り手のメッセージ性を感じる場面でもありました。大石静さんはインタビューで紫式部について「物語構築力と、己の確固たる世の中の見方がないと、長い物語は書けない。紫式部は、常に自己批判の精神を持った人」という見方を示しています。これから世界史に残る作家になっていくまひろ。その内面の厳しさ、論理性の高さを示すエピソードとして見事でした。「和」「漢」双方の世界に通じるまひろ。クリエイターとしての立ち位置もこれから注目です。
「君かたり」に注目!ストーリーを動かす道兼役の玉置さん
「光る君へ」のキャストが、番組公式のインタビューに場面や演技の狙いを語る「君かたり」。今週の注目は藤原道兼役の玉置玲央さん。
今のところ父の兼家とともに、ヴィランズとして強烈な存在ですが、どうやら単純な「悪役」というだけで終わる平凡な脚本ではないようです。やはり、ですね。これからが楽しみです。2分前後とコンパクトで視聴に役立ちます。↓から動画を見られます。
https://www.nhk.jp/p/hikarukimie/ts/1YM111N6KW/movie/
(美術展ナビ編集班 岡部匡志)
(※1)紀貫之(きのつらゆき) (?-945)平安時代の歌人、日記作者。三十六歌仙の一人。醍醐天皇の勅を奉じて、紀友則・凡河内躬恒・壬生忠岑とともに『古今和歌集』撰進の事にあたり、百首をこえる自詠と不朽の「仮名序」をものし、当代歌壇における第一人者としての貫禄を示した。漢土崇拝の風潮下にあって、伝統文化の興隆につとめ、古今和歌新風の樹立や自照的日記文学の創始など、文学史上に残した足跡は大きく、後続文芸に与えた影響もまた著しい。(国史大辞典から)
(※2)書経(しょきょう) 儒教の基本的なテキスト(五経・十三経)の一つ。中国最古の古典・史書でもある。(国史大辞典から)
◇「光る君へ」の情報が豊富な「美術展ナビ」。これまでの記事を「徹底ガイド」↓でまとめて読めます。
2024-03-10 11:45:00Z
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